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東京地方裁判所 昭和47年(ワ)2130号 判決 1973年3月10日

原告 箱崎産業株式会社

右代表者代表取締役 箱崎昌人

右訴訟代理人弁護士 隈元孝道

被告 中野区

右代表者区長 大内正二

右指定代理人 樋口嘉男

<ほか三名>

主文

原告の請求を棄却する。

訴訟費用は原告の負担とする。

事実

第一当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告は原告に対し金五〇〇万円およびこれに対する昭和四五年五月七日以降完済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

3  仮執行の宣言。

二  請求の趣旨に対する答弁

主文と同旨

第二当事者の主張

一  請求原因

1  原告は、訴外小松武夫(以下武夫という)・同小松かつよ(以下かつよという)の代理人たる訴外田代かつ子との間で、昭和四五年五月六日、武夫を債務者として原告から金五〇〇万円の金員を貸与し、かつよは右債務を連帯保証するほか、右債務を担保とするため、その所有にかかる東京都中野区中野五丁目五六番地所在木造亜鉛メッキ鉱板葺弐階建居宅一棟建坪四三・八〇平方メートル(一三・二五坪)、二階二四・七九平方メートル(七・五〇坪)につき抵当権を設定する旨の金員消費貸借ならびに抵当権設定契約を締結し、その旨の契約書を作成するとともに、右契約に基づき公正証書の作成および抵当権設定登記手続をなすに必要な右武夫およびかつよ名義の白紙委任状各三通、被告発行にかかる武夫名義の印鑑証明書二通、かつよ名義の印鑑証明書三通(昭和四五年五月四日付証第〇一四九一九号、同年同月六日付証第〇一五四六五号、同第〇一五四六六号。以下本件印鑑証明書という。)、両人名義の公正証書作成等承諾書・委任状各二通、かつよ名義の譲渡担保契約書および白紙委任状各一通の交付をうけ、同日、右田代に金五〇〇万円を交付した。

2  右契約成立後、同年五月二一日付で前記抵当目的物件の所有権がかつよ名義から訴外小松由夫名義へ贈与を原因として移転登記がなされ、前記契約に基づく抵当権設定登記手続が不能になったので、原告は右贈与契約の当事者たるかつよ・由夫を被告として東京地方裁判所に対し、詐害行為取消請求訴訟(当庁昭和四五年(ワ)第七八三一号)を提起したところ、右訴訟でかつよらは原告が入手している前記抵当権設定金員信用証書ならびにいずれもかつよ名義の白紙委任状三通、本件印鑑証明書三通、公正証書作成等承諾書・委任状各一通、譲渡担保契約書および白紙委任状各一通にそれぞれ押捺されている同人の印影は、かつよの登録済印鑑の印影と異なり、右書類はすべて武夫が偽造したものであり、かつよは前記のような連帯保証契約ないしは抵当権設定契約を締結したことはない旨主張し、右主張が認められて、原告は、請求棄却の判決を受け敗訴するに至った。そして、武夫は目下所在不明であり、かりにその所在が判明しても、同人は無資力者であるため、前記貸金五〇〇万円の回収は不可能である。

3  原告は武夫に右金員を貸し付けるに際してかつよと交渉しなかったが、前記田代の持参したかつよ名義の本件印鑑証明書を信頼し、これを印影と前記各書類に押捺された印影とが同一であることから、その所有にかかる前記物件上に抵当権を設定しうるものと信じたために右貸付をなしたものである。

4  元来印鑑証明書は、人違いでないこと、あるいは、名義人が真実その意思表示をしたことに相違ない旨を相手方で確認するため、取引の慣習上一般的に利用されるものであり、かつ、公正証書の作成や登記等の公的手続においても証明の資料として公認されているもので、取引の当事者がこの印鑑証明書の添付された契約書上の意思表示を相手方当事者による正当な意思表示と判定するのは当然ことであるから、印鑑証明事務を担当する特別区等において、証明書を発行するにあたっては、重ね照合の方法をとるとか、拡大鏡を使用する等の細心の注意を払うべき義務があるところ、本件印鑑証明書の発行にあたっては、被告の職員はこの義務を怠り、漫然と肉眼照合をしたにすぎなかった結果、登録済印鑑の印影と証明を求められた印影とを仔細に肉眼で比較対照しただけでも、

(1) 両者の印影を重ねてみると双方の輪郭の大きさが違う、

(2) 輪郭線の外側の線の厚みが違う、

(3) 輪郭の内側の線と内部の字画線との各隅における接触の距離に差異がある、

(4) 松の字の「ム」の所がとと形状が異なる、

ことが発見できたかにかかわらず、右両印影の差異を発見できず、真実に反する本件印鑑証明書三通を発行した。右印鑑証明書を信頼して財産上の取引をなした原告が右取引により誤った損害は、印鑑証明事務という公権力の行使にあたる被告の職員の過失によるものであるから、国家賠償法第一条に基づき被告が賠償の責に任ずべきである。

よって、原告は被告に対し回収不能となった前記貸金相当額五〇〇万円およびこれに対する不法行為日の翌日である昭和四五年五月七日以降完済に至るまで民事法定利率年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

二  請求原因に対する認否と主張

(一)  請求原因に対する認否

1 第一項の事実は不知

2 第二項の事実のうち原告とかつよ・由夫との間に詐害行為取消請求事件が当庁に係属していたことは認め、その余は不知、

3 第三項の事実は不知

4 第四項の事実のうち、印鑑証明書が原告主張の用途に使用されるものであり、公正証書作成等の公的手続においても証明の資料として公認されているものであること、被告が原告主張の本件印鑑証明書を発行したことは認め、その余は否認する。

(二)  主張

1 (無過失)

昭和四五年ごろの地方公共団体における印鑑証明の事務においては、印鑑の同一性の識別は、まず(1)提出された印鑑を自ら押印し、(2)両印鑑の印影を近接させて肉眼で照合し、両印影の大きさ、型、字体等に差異がないかどうか確認し、(3)疑いあるときは拡大鏡や印鑑対照検査機により照合するという方法により行なわれていたものであり(重ね照合は通常の肉眼照合により疑いあるときにのみ印鑑対照検査機により行なっていたものである。)、当時の被告の印鑑証明事務も以上の方法によっていた。そして、印鑑証明事務を担当していた被告区区民課でいわゆる総合窓口制をとっていたが、申請者が一日当り平均三〇〇名を越え、窓口に列をなし証明書の交付を待っていた当時の実状からみて、住民への迅速な対応を考慮すれば、右のように、通常は肉眼照合の方法をもって印鑑の同一性を照合し、確認することは、やむを得ないところであったというべきである。

本件印鑑証明書による証明を求められた印鑑は、事務担当職員が右のような肉眼照合の方法によりその同一性に何らの疑問を抱かなかったほど登録済印鑑の印影と極めて類似したものであったから、右肉眼照合のみで両印影を同一のものと確認し、拡大鏡や印鑑対照検査機等のより高度の方法を採らず直ちに印鑑証明書を発行した被告事務担当職員の行為は、たとえ右確認の結果に誤りがあったとしても、職務上の義務を怠ったとされるべきものではなく、同人に過失はない。

2 (相当因果関係の不存在)

印鑑証明書は印鑑が登録されているものであることにつき、公の権威をもって証明し発行するものであるが、それが申請者によりどのような目的に使用されるものかについては、発行者の全く関知しえないものである。従って右証明書所持者の行為によって生ずる結果についてまで、証明書発行者が危険を負担すべき性質のものではない。

本件において原告の主張する損害は、原告が田代かつ子を通じて武夫に貸与した金員が、原告がかつよの代理人と信じて右田代との間で締結した抵当権設定契約が無効とされたため、回収不能となったことによる損害をいうものであるが、かかる損害は印鑑証明書の過誤発行から通常生ずべき損害ということはできないから、右損害と被告職員の行為との間に相当因果関係はない。

3 (過失相殺)

原告は土地建物の売買および仲介、土木設計施工請負、その他右に付帯する一切の業務を営む営利法人であって、金銭の貸与事務は、不動産の売買および仲介と密接不可分の関係を有し、これに付帯する業務に該当するから、原告は金銭の貸付にあたっても、不動産の売買および仲介と同様種々の方法により相手方の資産、信用、経歴等につき十分調査をしたうえで貸付を行なうべきであり、かりに原告が不動産業者として武夫に右金員を貸付けたものでないとしても、貸主は相手方ならびに保証人の意思を確認し、その資産、信用、経歴等について十分調査を行なうことが通常必要とされるところであるのに、原告は、かつよと同じ中野区内の同人に近接した場所に居住していて、容易にその真意を確かめえたにもかかわらず、これを怠り何ら調査を行なわず、田代の持参した本件印鑑証明書のみにより同人を軽信して、金五〇〇万円という多額の金員を同人に交付したものであるから、原告には重大な過失があるものといわなければならない。

三  被告の主張に対する原告の反論

1  主張第一項について

我国では個人の意思表示の証拠として署名捺印のみならず記名捺印の有効性も認められ、その捺印が真実名義人のものであることは届出を受けている官署の印鑑証明書により証拠づけられるものである。かかる重要な任務をおびる官署の印鑑証明書が事務の多忙を理由として軽々に取扱われるものとすれば、国民はその証明の真偽を確認するため更に専門機関に依頼して精密検査をした上でなければ取引や公証制度に利用できなくなり、印鑑証明制度の存在価値は無に帰するというべきである。被告の主張は理由がない。

2  主張第二項について

印鑑証明書が取引や公証制度に利用されていることは公知の事実であって、被告も当然これらの用途に使用されるものであることを予測していたはずである。

3  主張第三項について

原告は前記金員を武夫に不動産業者として貸し付けたものではないから、特別な注意義務を負ういわれはなく、被告の主張は理由がない。

第三証拠≪省略≫

理由

原告は、偽造印によるかつよ名義の印鑑証明書の交付申請に対し、被告の担当職員が過失により右印鑑による印影が登録済印鑑によるものと同一であると誤認して本件印鑑証明書を発行したため、右印鑑証明書により訴外田代かつ子を代理人と信じて武夫およびかつよとの取引をなし、損害を蒙った旨主張する。

被告がかつよ名義の本件印鑑証明書三通を発行したことは、当事者間に争いがなく、≪証拠省略≫によれば、右各印鑑証明書がかつよの登録済印鑑と相違する印影について誤って相違ない旨の証明をなしたものであったことが認められ、これに反する証拠はない。

よって、右各印鑑証明書の発行につき、被告の担当職員に過失があったか否かにつき判断する。

我国においては諸外国と比較して印鑑が殊の外重要視され、その捺印の存在は、本人の同一性の確認および本人の効果意思の確認をするうえに必要不可欠なものとして、一般の取引における文書についてはもとより、公正証書の作成や登記等の公的手続において、本人の捺印のある書面が要求されている。そしてその文書に顕出された印影が届出済印鑑と同一であることを証明し、前記の趣旨を一層確実にするために用いられるのが印鑑証明書である。

従って、地方自治法の規定に基づきかかる重要な印鑑証明書の発行を担当する市・町・村・特別区の職員は、この制度の趣旨に相応する慎重な注意を払ってその事務を遂行すべき義務があるのは当然であるが、ここに慎重な注意を払うべき義務とは、もとより鑑定等に用いられるような高度の科学的方法の採用までも要求するものではなく、両印鑑の印影を近接させて肉眼で両印影の大きさ、型、字体等に差異がないかどうか仔細に照合し、いささかでも疑いがあるときは拡大鏡や印鑑対照検査機により一層精密な照合を行なうをもって足りるものというべきである。それ以上に、拡大鏡等を使用した精密な照合をなすことを常に要求し、肉眼による照合にとどめることを不可とすることは、多数の肉鑑証明書交付申請に迅速に応じなければならない事務の実情(≪証拠省略≫によれば、本件印鑑証明書発行当時の被告区における一日当りの証明書発行件数は三〇〇ないし八〇〇件にも及び、窓口に申請者の列が出来ることもあるような状況にあったことが認められる。)からみて、不可能を強いることとなるばかりでなく、印鑑証明書が本人の同一性や効果意思の確認のための唯一絶対の手段ではなく、社会通念上、印鑑証明書を利用する取引の相手方は、本人の効果意思の確認に万全を期するためには、当該取引の具体的状況に応じ、さらに他の方法による調査をもつくす必要があると認められる場合が少なくないことにかんがみると、印影の照合について、かような高度の注意義務を認めることが、印鑑証明制度が有効に機能するための不可欠の前提であるということもできない。

そして、≪証拠省略≫によれば、当該被告区の区民課においても、まず印鑑証明用紙に押捺された印影と登録原簿の印影とを平面的に並べて見て両者の印影を比較対照し、疑いあるときは更に別の窓口に当事者を呼び出して印鑑の提出を求め、更に押捺した上拡大鏡を用い或いは印鑑対照検査機による重ね照合をなす手続をとっていたことが認められ、右認定に反する証拠はない。

ところで、前記甲第一〇号証(鑑定書)中の、本件印鑑証明書に押捺してある印影と被告保管にかかる、かつよ名義の印鑑登録原簿に押捺してある印影の各拡大写真(約七倍程度の拡大)を比較検討してみると、なるほど両印影の間には原告主張のような差異を見出すことができないでもないが、本件印鑑証明書であることに争いのない甲第四号証の一ないし三と右甲第一〇号証中の印鑑登録原簿を撮影した写真に基づき、右両印影を実物大に即して仔細に比較検討すると、「小松」の「ム」に該当する「口」の部分が、前者はやや丸味を帯び、後者はやや角型になっていることが窺えるほかは、右両印影は、その大きさ、型および字体等が肉眼では識別が困難な程度に極めて類似しているものであり、右「口」の部分も、その字画が一×一・五ミリメートル程度の微細な部分であって、その部分に相異があることを前提にして眺めれば別として、かかる前提のない段階においては、その識別は慎重な注意を払っても必らずしも容易なものではなく、従って被告の担当職員が右両印影について肉眼照合により疑念を抱かなかったことは無理のないことであり、被告担当職員の前記のような肉眼による印影の照合に、右両印影の識別を要求することは酷に失するものであって、右職員が両印影の同一性に疑念を抱いて拡大鏡等による印影照合の措置を採るに至らなかったとしても、これに過失があったとすることはできない。

よって被告担当職員に右のような過失があることを前提とする原告の本訴請求は、その余の点について判断するまでもなく、理由がないことが明らかであるからこれを棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 横山長 裁判官 松村利教 満田明彦)

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